市役所を辞めた自分がなぜ戻る?(回顧録含む)
- 大輔 佐野
- 2022年10月6日
- 読了時間: 4分
まわっていると経歴をみてよくこの問いを聞かれます。
もともと燕中学校で働いていて、燕市のことを深く知るようになり、この街のために働きたいという思いで燕市役所に入りました。
燕市役所では福祉課、文科省(教育総務課)、学校教育課、選挙管理委員会、地域振興課、観光協会(商工振興課)と10年の間で色んなところを経験しました。
特に2年目〜3年目の間に文部科学省初等中等教育局に派遣していただいたのは本当に自分の大きな転機になりました。
世に言う官僚はあまりいいイメージを持たれない方がおられますが、私が接した方々は「本気でこの日本の教育をよくしよう」という熱意をもった方が多く、常にモチベーションが高く、でも飲むときはとことん飲むような熱い方々の集まりでした。
それでいて東京大学や有名大学を卒業した秀才で頭はキレキレで、心は熱い、そして地方から来ていた私のような職員にも本当に同僚して接してくれたそんな方々でした。
(もうみなさん出世されて当時の課長は文部科学審議官に、補佐は各課の課長など偉くられてます)
そんなメンバーと一緒にする仕事は気付けば日をまたいでいるようなハードな業務ではありましたが、モチベーションの高さに引っ張られて、国会会期中は日が明けるまで庁舎にいたりするようなこともありましたが、それも苦じゃないくらい充実した日々でした。
そんな方々から一番学んだのは、本気で自分が変えたいと思って取り組むこと。
だからこそ燕市役所に戻ってからは本気で燕市のためになるのはどういうことなのか、本気で自分のいる燕市を日本一の町にしたいそういう思いで取り組んでいました。
そして、もう一つの転機は、市役所でいい方々に出会えたことでした。 多少ぶっきらぼうで怖そうな見た目ですが、ずっと市民のために対応する某先輩職員の方、ものすごく物腰が柔らかくいつもノリノリで、飲み会もノリノリだけど飲んだ次の日はすごく静かな某先輩職員、遠くから移住して燕のために一生懸命頑張る某先輩職員、あとものづくりの知識がハンパない方、私よりも若いけど行動力がめちゃめちゃある後輩、違う組織から入って燕の観光を大きく変えた方などなど。
特に最初の怖そうな見た目の先輩から学んだのが 自分のことを頼って相談にきてくれた方に対して、この制度だと無理ですとか、それは自分の担当じゃないと言うことは簡単だけど、そこをこういう形で要望を出せばとか、こういう計画を作れば、この部署を通せばとかどうしたら相談に少しでも応えられるかということを考えて常に行動していたところで、私もそのやり方で10年間働いてきました。
もちろんその相談に対応したのはそれが燕市のためになると考えたからであり、そうでないものについては理解していただき、納得していただいた上で別の提案をしました。
そんな市役所生活でしたが、自分ができることの限界を感じました。
市役所なので、公平性が大事で、たとえばこの企業のこの取り組みをサポートできれば好事例として他の企業のお手本になる、だからこそ燕市のためには今この企業をサポートする必要がある。
そう思っても当初予算で計上していない、一社のためにやるのは公平ではないというハードルが常につきまとってきました。
これは当然のことなのですが、このことを窮屈に感じて、民間に転職することにしました。
(民間での仕事についてはまた今度回顧録で)
民間に移ってから、本当に充実したお仕事をすることができましたが、その中でもどかしかったのが、一社や一団体、一校のサポートをして、それが好事例になればと思っていましたが、いち民間ではよほど影響力がある立場にいない限り、それを市全体に波及させることはできないということ。
だからこそ今度は民間としてサポートをしながらも、市の方針を決める方々に公の場で意見を聞いたり、こうしたらいいのではと質問できる立場として市を変えることができる。
そう言う思いもあり、燕市に別の形で戻る決意をしました。




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